(写真は河和天神社で行われた北組の山車を新調した時の写真です)
河和の天神社は、長禄二年頃(一四五八)に創立され、浜天神或いは、天満宮と言われ村人に親しまれていた。神事や行事は、豊作を祈願したり、感謝するなど、地域の生産活動と結びついた願いや喜び、四季の変化に応じた祭りが行われていた。
江戸時代後期の『張州雑誌』によれば、河和天神社の項に「祭禮六月二三日二四日両日山車一輛有り」とあるように、祭礼には山車がひかれるなどの行事が行われていた。
明治に入ると、神社は国の保護統制を受けるようになり、神社で行われた公的な祭祀は大祭(祈年祭・例祭・新嘗祭)、中祭、小祭と規定された。大祭の一つである例祭は、神武祭(神武天皇崩御の日)として毎年四月三日に行われるようになった。当日は、山車がひかれ神輿や囃子があり`、露店が立ち並ぶなどの賑わいをみせている。
戦後、神社は国の統制からはずされ、祭祀の制度は一部が手直しされたものの、今日まで受け継がれている。
しかし、社会の変化とともに氏子の多くが勤めるようになると、毎年四月三日に例祭(神武祭)を行うことは難しくなってきた。そこで、昭和三十年代になると、例祭は四月の第一日曜日に行われるようになった。
『村社沿革誌』によると、「明治二十二年南組の山車が火災で消失、明治三十年に新調。北組、中組の山車修繕」と記録されており、当時は、三台の山車があったといえる。その後、若家組織の北組は山車と神輿、獅子舞いをし、中組が山車、南組が神輿(大太鼓)をかつぐなど、昭和三十年頃まで盛大に行われていた。しかし、祭礼行事を受け持つ若家制度の衰退とともに、北組の獅子舞や神輿はなくなってしまった。
昭和三十四年四月の祭礼から、北・中・南組の組織が統合され、河和区祭礼として二台の山車がひかれるようになったが、昭和三十七年以後、中組の山車は人手不足のため、解体して蔵に保管された。
平成元年、河和区、河和山車保存会などの尽力で蔵からひきだされ、再び天神社に見事な姿が見られるよう
になり、山車が二台勢揃いする場面などは祭りに活気を呼び戻し、現在も盛大に行われている。