あいち美浜町♥かっぱの苑


美保ヶ濱 大正のロマン 知多河和地区

友人から「知多の海辺の今昔写真 ~竹内進コレクション展~」が半田市立博物館で開かれていて、美浜町は「美保ヶ濱海水浴場」の絵葉書が展示してあったことを聞き、会場で配られていたチラシを受け取りました。その後、かっぱの家族メンバーから「美保ヶ濱」は、美浜町の名前の元になったのではないだろうかと尋ねられました。河和町と野間町が合併することになったとき、県への申請の新町名称は「南知多町」でした。昭和30年3月5日付けで愛知知事に申請書を提出したが、「南知多町」は、知多郡南部全体の呼称である」との理由から不適当とされ、一時保留となった。 3月20日付け「町の廃置分合について(届出)」によれば
河和、及び野間の両町は、それぞれ伊勢湾並びに三河湾に面し、白砂青松の美しい浜をもつ海水浴場として天下に知れわたっているので観光地として新町の発展を祝福し、『美浜」の名を新町名として選定したものである。 以上のことから美保ヶ濱から美濱・・・美浜という説はなくなってしまいました。

昭和30年発行の河和町史や美浜町誌 本文篇・資料編で確認しても「美保ヶ濱」は記載されていませんでした。翌日半田市立博物館に出向き、絵葉書を拝見すると、昭和に販売された写真と同じものでびっくりしました。表示が「美保ヶ濱」を「河和海岸」に変わっていました。

南知多の古い観光パンフレットを見てみると何と、「河和の衣ヶ浦湾内にあった美保ヶ濱」の文字が飛び込んで来ました。大正14年に印刷された南知多遊覧です。いくつかあるパンフレットをみてもそれ以降は、河和海水浴場の表記、その後の新しいパンフレットには、河和海水浴場の記載もなくなっています。

さて、「美保ヶ濱」については、『河和附近には白砂青松、美保ヶ濱をひかえ鏡のような衣ヶ浦湾に臨むところ優美極まる眺めである。』と書かれていました。図面で見ると沖に向かって青松と白砂が伸びていることがわかります。さぞよい風景だったと思います。

昭和16年頃から河和海軍航空隊が建設され海岸が大きく変わったことが河和海軍航空隊報告書(美浜町教育委員会発行)にかかれていました。参考に地形図を載せておきます。

 

 

夏涼しく冬暖かな 南知多観光案内 昭和14年7月13日印刷納本 昭和14年7月17日発行 定価金10円南知多新聞社発行 

5頁上段に写真があり、説明書きとして 河和駅 右・・・知多バス河和営業所 左・・・名鉄河和駅 そして下段には、南知多河和と河和音頭の記載があった。

南知多河和は二里余の海岸線に沿ひ海水浴に適す、海水浴場として河和口、時志、古布、矢梨等あり何れも白砂青松で彼方に絵のごとき篠島、日間賀島の点在、処女の如き穏波、風光明媚で理想的海水浴場である。夏の海水浴場、秋のハゼ釣キス釣の好適地である。

▼名勝 時志観音、名古屋信貴山、名鉄河和口駅より約五丁直ちに数百の石段老松の間を縫ひて境内に至る。安産守護の霊験あらたかで賽者絶え間なし

▼三光稲荷 河和本町より西へ二丁曹洞宗全忠寺境内に奉安さる、尚同寺境内は衣ヶ浦湾の眺望よく無数の桜楓を移植し風光明媚で四季の行楽の好適地

▼交通 省線武豊駅より河和本町までバス25分、名鉄電車河和駅終点、名鉄神宮前より河和まで50分  賃金76銭

▼旅館 登佐館、三枡屋(布土)角屋、堀田屋本店(河和)宿料1円50銭より、料理店新堀田屋

▼名物 茸せんべい、河和饅頭、千鳥餅、そば薯預、衣ヶ浦、吉野羹等あり

▼河和大寶園 名鉄河和駅終点に大寶園分譲地あり別荘郊外住宅地としての理想地なり名古屋から急行50分

河和音頭

知多の河和は思ひ出ゆかし  磯の真砂に汐干狩

 海水浴するなら河和においで  濱は遠浅波静か

   秋の河和で見せたいものは   男女そろひの地引網

     美保ヶ濱邊の緑の松に     冬が待て来る綿帽子

 ※ この南知多観光案内に記載されている河和音頭の歌詞は、河和町史と美浜町誌に記載されている河和音頭の歌詞とはまったく異なっており、どこから引用したかが不明です。

注 HPにアップされていた昭和13年発行の南知多案内によれば、「美保ヶ濱海水浴場」の記事が載っています。昭和13年までは、「美保ヶ濱」の地名として広く認識されていたものだと推察できます。 

 美浜町所蔵品

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