昭和34年以降に撮影された物です。どなたか記憶にありませんか。新江川沿いのモニュメントに河童の背中が見えます。
分かっていること、昭和32年に駅の中に灯台のモニュメントができたときは、ありませんでした。
昭和34年以降に撮影された物です。どなたか記憶にありませんか。新江川沿いのモニュメントに河童の背中が見えます。
分かっていること、昭和32年に駅の中に灯台のモニュメントができたときは、ありませんでした。
海水浴がレジャーとして町を賑わすことになったのは、昭和27年から28年頃と言われ、河和海水浴場は初めてでした。昭和30年には、町制施行の一環として、町内3箇所にある河和、河和口、野間にかっぱのシャワー像が作ろうと計画され、昭和31年6月に完成しました。昭和31年7月8日(日)に第1回かっぱカーニバルが開催されました。そして、7月29日に命名式が開催されました。
野間太郎父ちゃんかっぱ命名式の餅まき
写真で見ると野間太郎の右腕の形が違うことがわかります。当時手に軍配を持っていたという話を聞きましたが、ゆり子母ちゃんは、たこ壷を持っています。漁具を持っていたのでしょうか。今ではわかりません。現在はガッツポーズです。
伊勢湾台風は美浜町に大きな被害をもたらしました。伊勢湾等高潮対策事業の一環として行われた海岸の改良により野間太郎は、砂浜と分離され護岸道路対面の位置になりました。その後、新しいシャワー施設、トイレを備えたステージの建設のために、現在の蟹の形の観光案内看板のところに移設されました。しかし、蟹の案内板設置のため、看板の後ろに移設されました。
命名式前の白い布で覆われた花ちゃん娘かっぱ
名鉄電車河和口駅前の押しボタン信号のところに建っています。昭和34年の伊勢湾台風による護岸整備に伴い、花ちゃんは護岸と一体となった、現在のような形になっています。
木原豊治郎伝製作にあたってご協力いただいた吉田弘先生がこのたび新しい本を出版されました。
以下説明文↓
常 滑 市 在 住 で 、 三 十 余 年 前 地 元 河 和 中 学 校 で も 教 鞭 を 執 っ た 、 元 小 中 学 校教 諭 吉田 弘 先生 ( 七七 歳 )著 、「 新美 南 吉の 生 涯 」が 、 平 成二 十 四年 一 月一 日 をも っ て誠 進 社よ り 出版 さ れま し た。この 本は 、吉 田弘 先 生が 編 集・発 行 する 俳 句 雑誌「 自 然 ( じ ね ん ) 」 誌 上 に 、 平 成 十 九 年 十 二 月 号 か ら 平 成 二 十 二 年 四 月 号 ま で 、 二 年 五 ヶ月 に わっ た て連 載 した も のを も とに ま とめ た もの で す。数 々 の 著 書 を 出 版 し た 、 吉 田 弘 先 生 の 執 筆 活 動 の 集 大 成 と も い え る、 新 美南 吉 生誕 百 年に む けた 話 題作 、「 新美 南 吉の 生 涯 」をぜ ひ多 く の方 に 手に し て、 読 んで も らい た いと 思 いま す 。
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